吹奏楽部の歩み BACKSTAGE

♪充実期♪(高校から学園の行事へ)
#023
1986年(S61)
イノサン・ワールドにコーチも唖然

 1986年(S61)7月、東京FMの取材で課題曲『テイク・オフ』を演奏した.しかし、FM東京なのにオンエアーは関西だけ…。なんか割り切れない気持ちの部員。

 次はあのバンド・ジャーナル誌が『練習中、おじゃまします。』のコーナー取材で来校した。部員一同ポーズと笑顔満開で写真に収まっていた。そしてなによりも、猪俣猛先生が愛娘、優子(3年打楽器)のレッスンなど、共立ならではのおいしい?ショットも掲載された。

 8月11日からの合宿には猪俣先生2回目の登場となった。夜のリズム・クリニックは先生の話術と叩き出されるリズムに部員の目は点に…。
 20分にもおよぶ超ロング・ドラム・ソロにはそのテクニックに目を閉じるのを忘れ、ドラムセットから湧き出てくるメロディーに一番興奮していたのは若いコーチたちだったかもしれない。
#024
1986年(S61)
夢にまで見た…荘司先生

 この年のコンクールはA
・Cの二組に参加した。今回のC組は1年生だけのメンバーで、指揮はこれまた初めての荘司浩利さんであった。荘司さんは共立高校の理科助手をしていたまだ理科大の学生だった。高校時代チューバを担当していたという。コンクールでは、部長として伊達先生から表彰状を受け取ったそうだ。世の中狭い。猪俣先生と私との関係もそうだが、人との出会いは大切にしたいものだ。
 コンクールに向けての練習、部員が帰った後で私と彼との指揮の練習が始まる。自宅での食事中、無意識のうちに箸を振っていたとか、グァバッと起き上がり、大きな寝言で注意を言ってまた寝てしまったとか…。しかし、8月24日、彼の努力はウソをつかなかった。全員初心者のメンバーで見事、金賞を受賞した。物事に対する無心・純粋さがいかに大切かを改めて教えてもらった。
#025
1986年(S61)
いよいよ学園の行事に…

 学園は明治19年に鳩山春子先生らによって設立され、1986年、創立100周年を迎えた。岡田校長の勧めもあり、一ツ橋キャンパスでの記念式典へ参加することになった。コンクール自由曲の提供を協力していただいたことがある小長谷宗一先生に記念式典での祝典曲の作曲を委嘱した。
 作品は厳かなファンファーレで始まり、威風堂々をほうふつとさせるようなゆったりとしたマーチ風メロディーが流れ、私にとっては鳩山薫先生をイメージできる気高いホルンのメロディーへと受け継がれ、天に昇華していくかのように曲が閉じられる共立女子学園にふさわしい作品に仕上がった。作品はもちろん吹奏楽部も各方面から過分な評価を頂戴した。
 高校から学園に吹奏楽部は認められていった。


#026
1987年(S62)
父娘のツイン・ドラム競演に…

 1987年(S62)3月21日、第6回定演はあたたかいまなざしと拍手に包まれていた。とうとう、猪俣先生をゲストに迎えることが実現した。講堂いっぱいのお客様も演奏している部員たちもそのスティックから叩き出される音の魔力に魅了されていた。長く続いたアンコールの拍手に応えて正面中央の2台のドラムセットに父と娘が向かった。
 リハーサルでもそうだったが、時折見合す目は厳しいプロ奏者のそれでなく、いっぱいのあたたかさにあふれていた。
 娘優子さんは、同期の友人、岡谷さんとともに音大の打楽器科を目指すことになった。
#027
1987年(S62)
もう、くせになりそ!

 3年前から中学での募集人数が100名減となり、1987年(S62)4月から1学年が10クラスの編成になった。より内容のある行き届いた教育が求められた。
 8月合宿に岡田校長が陣中見舞いにいらした。バーベキュー・1年生のミニコンと続いた後、OG・コーチで編成したバンドの指揮を校長にお願いした。さすが軍隊経験者らしくマーチはいいテンポで指揮をしていた。演奏後、私の耳元で笑顔の校長の一言。
 「もう、クセになりそ!」
 この後、10月の文化祭で先生方に参加していただいて『1分間指揮者コーナー』を企画し、生徒にも先生方にも大好評だった。
#028
1987年(S62)
キャーも味方して

 1988年(S63)8月のコンクールA組はバランスのよいメンバー編成で臨めた。『風紋』では金管のファンファーレの響き、小気味よい打楽器(笛パートから2人・ホルンから1人がコンバートされていた)、元気よい木管。自由曲の『カンカン』では勢い余って、クラからキャーの音が…。結果は『金賞』。
 審査員の講評には「もっと元気にいっぱいキャーを…」何とあたたかい教育的なメッセージを。ありがとうございました。
#029
1988年(S63)
皇居に一番近い学校

 私たちのいる一ツ橋のキャンパスはその昔、宮内庁の土地であったとか。共立女子職業専門学校でスタートした学園の今でいうバザー?には皇居に一番近い学校ゆえに皇族の方々もいらしていたようで、生徒たちの作品を買い求めて下さっていたそうだ。そのことから共立の教育が高く評価され、今の土地を宮内庁がご下賜くださったという。このように皇族とも縁?がある共立としては、1988年10月、天皇陛下(昭和天皇)のご病気には文化祭も内容を一部変更・自粛して実施し、ご回復を祈りました。

 1989年3月、5年間お世話になった理科助手の荘司先生がご退職され、栃木にある高校の教員として赴任されていきました。荘司先生、ご指導ありがとうございました。
#030
1989年(H元)
同じ審査員でも…

 1989年(H元)のコンクールではこんなことがあった。リムスキー・コルサコフ作曲の『スペイン綺想曲』を演奏した我々に講評用紙にただ一言。
 「古い。いまどきこんな古い曲はやらない。選曲が悪い。」
 結果は『銅賞』。
 では、女子高校ではどんな曲ならよいのか、演奏を聞いてその学校のレベルにふさわしい曲は何があるのか、などなど…。そんなアドバイスは一切ない。コンクールは学校教育の一部なのです。
 2年前の審査員とは大違い。部員ともども落ち込んでしまったコンクールでした。
#031
1990年(H02)
初めてでこれっきり

 毎年3月、定演翌日が送別会。3年生(卒業生)とのお別れが辛いのか、いつまでたっても学校の周りでパートごとにゴショゴショ。ならば、一晩中、心置きなくやらせてあげようとお世話になったコーチもお招きして1990年3月23日から2泊3日の館山春合宿を計画した。
 夏の合宿は練習時間確保のため、寮に閉じ込めひたすら練習。ということで、往路はマザー牧場で昼食をとり、南房パラダイスを見学し寮へ。夜は新歓の練習をして、2日目はコンクール課題曲の譜読み。夜は、お待ちかねの送別会。佐藤料理長の心のこもったお料理に話しが弾み時間が過ぎていった。パート別送別会は各部屋に分かれた。徹夜で泣いていたのか、翌朝、みんなの目は真っ赤だった。帰りに鴨川シーワールドで昼食をとり戻った。生徒部に実施報告を提出したところ、合宿とは認めてもらえず、はじめてでこれっきり。
#032
1990年(H02)
遅れて一番、そして金

 1990年(H2)7月、コンクールの抽選会に出かけていった部長たち、道に迷って抽選会に遅刻してしまった。ペナルティーとして演奏は一番目に。曲はコンクール2度目の演奏となる『太平洋の祝典』より『祈り・パレード』。かつて、指田・猪俣・岡谷らが演奏した曲である。前回より大胆にカットしシンプルにした。曲は順調に仕上がっていった。コンクールの前日、練習中に木魚が2個割れてしまった。店じまい中の浅草の仏具店に飛び込み、何とか手に入れた。

 ステージから見た会場からは共立の関係者ばかりが目に入ってきた。部員たちも時間の余裕があったためか落ち着いている。マーチ・マリーンシティーの音が鳴ると気持ちのよい響きが会場をいっぱいにした。自由曲の金管も打楽器もよく鳴っている。
 「一番、共立女子高等学校、ゴールド金賞!!」
 あのときの会場をゆるがした驚きのどよめきは忘れられない。早起きは三文の得とか…
 トップ・バッターもいいもんだ。
#033
1992年(H04)
先生となかよし?

 文化祭でも先生方に『1分間指揮者コーナー』などに出演していただいたが、1992年(H4)3月の予餞会にはさまざまな打楽器を手に神妙な顔つきの先生方が並んだ。近藤・林・児島・小菅・毛塚・松浦・北沢・跡部の先生方だ。曲は『パリのあやつり人形』。テープを何度も聞いて練習してくださったのでしょう絶妙のタイミングで音が入る。
 ん! オッ、1拍ずれちゃった。誰かって? もう、忘れてしまいました。
 翌1993年(H5)3月の予餞会は、たいへんでした。生徒会行事委員会ともタイアップし、3年生の担任の先生方に協力していただきました。曲は『エレクトリカル・パレード』。曲にあわせ講堂正面扉から登場したのは、アリスの木村先生・ウサギの山崎先生・白雪姫の穴山先生・王子の毛塚先生・魔法使いは山本先生・ウェンディーの前田先生・ティンカーベルは沢先生・戦いながらの登場は津田フック船長に高塩ピーターパン…。もう会場は悲鳴と歓声で演奏も聞き取れない状態。先生方、ありがとうございました。
#034
1993年(H05)
ほのぼのあったか、そして金

 1993年(H5)8月20日、コンクールC組の演奏は1年生20名と猪俣コーチのフレッシュなコンビ。『三つの情景』というタイトル通り、表現のイメージがもちやすい曲。それぞれの楽章が楽しく表現されていた。パイプオルガンの前で演奏する1年生、指揮をする猪俣コーチ、ほのぼのあったかの演奏でした。
#035
1994年(H06)
超豪華大物ゲスト2人の登場

 1994年(H6)3月21日、第13回定演は超豪華大物ゲスト2人の登場に沸いた。
 一人目はフルートの平野コーチ。やさしい豊かなフルートの音色に会場の保護者もうっとり。2曲目の『カルメン幻想曲』では一体指が何本あるのでしょうか。超絶技巧の難曲に割れんばかりの大きな拍手。
 二人目は演奏生活40周年を迎えたドラムの猪俣猛先生との2度目の競演となった。アドリブをドンドン部員にトライさせながら、生徒たちの長所・可能性をどんどん広げさせていく。もちろん、先生の人間味あふれるメロディックな芸術的なソロに会場はただただ満足のコンサートだった。
#036
1994年(H06)
クリップボード--ジャズの世界へ

 この日卒業したTp.の平田は4月に早稲田のハイ・ソサイティー・オーケストラへ入団した。1年からレギュラーとなり、8月のコンテストでは審査員の猪俣先生から声をかけられ、先輩たちに羨ましがられたとか。2000年度のコンクールでは部員たちにJazz指導してくれました。アドバイス1つでどんどん音が変わっていくのを目の当たりにし、先輩の力の偉大さを感じました。
#037
1995年(H07)
まずは部員の安全確認を

 1995年(H7)3月20日、5号館体育館2階の美術室では明日の本番を前に大曲『運命』を練習していた。何か大きな事件が起きたらしい。職員室に戻って状況を確認すると地下鉄で騒ぎが起き、通学・通勤途中の乗客に死者もでているとのこと。
 出席をとり、全員いることを確認した上で、無事学校に着いていることを自宅に連絡させた。後のニュースでそれがサリンだと知った。家族や友人などの安否を気遣う部員も多くいた。共立の生徒や卒業生の中には被害に遭遇してしまった者もいた。翌日の『運命』の演奏にはなにか考えさせられてしまった。
#038
1995年(H07)
黄色のトレーナーにさようなら

 1995年(H7)4月、新歓のステージ上には真新しいユニフォームを身に付けた部員たちがいた。
 1979年、生徒会部活動として承認されて以来親しんできた赤のネクタイ・黄色のトレーナーにお別れを告げ、グレーの格子縞のキュロット・スカート、赤のベストの新ユニフォームを誇らしげに着て、演奏している部員たちだった。
 生徒にも先生方にも好評で、ユニフォームにあこがれて入部してくるかも…。


#039
1995年(H07)
集まれば高校生に…

 1995年(H7)6月4日、1号館5階体育室には楽器を手に、にこやかに、いや、にぎやかにおしゃべりしているOGがたくさんいた。思い出の曲、はじめて見る譜面にかじりつきながらも楽しそうに演奏している姿を見て、なんだか無性に嬉しくなってきた。
 音楽っていいな。部活っていいな。友達っていいな。戻る年数はそれぞれ違うがみんな高校生になっていた。午後は4号館学食で佐藤料理長の心のこもった料理を堪能し、部の創立20周年を祝った。
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