♪躍動期♪(部活動としてのシステム化) | |
#008 1979年(S54) |
基礎固め・練習システムの確立を 1979年(S54)、いよいよ部として活動ができる。4月、新歓での演奏も熱がこもる。新入部員も20数名入ってきた。週3日の活動日は、火・金・土とした。他校は毎日練習をしているのだろうから、我々は時間を有効に使わなければならない。部長・副部長・コンミス・パートチーフらと演奏会に向けて練習スケジュールを作成した。合奏はいつから、部分奏はいつから、そのためにはパート練習をいつまでに終わらせるか…などなど。必修クラブ時代より活動日が週3日になっても効率のよい練習がなかなかできないまま、6月の高吹連定期演奏会(現在のBF)の日を迎えた。このころ、チューニング時間節約のためにチューナーの開発を大学の友人と行った。(このチューナーはいまでも楽器倉庫に保管してある。) |
#009 1979年(S54) |
館山寮は部員の原点・ふるさと 部活動になってのメリットのひとつは合宿ができることであった。前年の1978年、新しい学園寮が千葉の館山に完成した。下見に行ったときから、吹奏楽の合宿に最適な環境であったので、すぐ申し込みをした。第1回目の合宿は、8月1日から5日まで52名の部員(3年8名・2年17名・1年27名)が参加し、コーチには小田高の後輩で武蔵野音大に進学した打楽器の米山コーチとトロンボーンの片倉コーチ、それに片倉さんの友人でクラリネットの板倉コーチ(現、早実指揮者)の3名が加わり、引率は近藤・大川・栗田の3名が受け持った。また、OGでは、OG会長の森田(旧姓:青江・Tp)さんと大谷(旧姓:吉沢・Fl)さんがお手伝いをしてくれた。合宿は基本的に小田高と榛名SMSでの練習スタイルのミックスが取り入れられた。館山寮は部員の原点・ふるさとである。 |
#010 1979年(S54) |
部員が変わった日 コンクールはA組に参加した。やはり、A組はレベルが段違いに高かった。結果は銅賞。そこで、そのコンルールで金賞を受賞した明治大学附属明治高校の指揮者の山本孝先生と相談し、部員たちに練習を見学させていただくことになった。明明は中高生合同の編成だが、練習はメリハリがあって心地よい緊張があった。部員ともども驚いたのは、練習後の片付けの様子であった。小さな中学生が走り回って楽器を運ぶ。話もしない。聞こえるのは高校生の指示だけ…。明明も、共立と同じように練習時間が少なく、下校時間も早かった。 翌日の記録係りのノートに、『いい演奏はすばやい行動から!』と書かれていた。その日から部員たちの動きが変わった。 |
#011 1979年(S54) |
吹いた! 踊った! 600人 この年の体育祭について触れておかなくてはいけない。前年のコンクールで演奏した『吹奏楽のための小狂詩曲』を聞いた体育科の野村(現、石原)先生が2年生を対象としたダンスの曲として『小狂詩曲』を選んでくれた。12クラス約600人が吹奏楽部の生演奏で踊ることになった。2本のバチを手具に勇壮で元気のいい作品に仕上がった。 1979年(S54)10月19日に予定されていた体育祭は台風20号のため延期となり、11月9日、生の演奏に合わせて踊る2年生のダンスに駒沢第二競技場の一日は熱かった。 |
#012 1980年(S55) |
一気にはじけたエネルギー 1980年(S55)、前年からの部員たちのエネルギーはこの年にはじけた。4月の新歓、5月八王子の第二高校音楽部との合同演奏会、6月高吹連の定演(共立講堂)と行事に追われながらも3年生部員がほとんど残って、1・2年生をリードしてくれた。コンクールに向けて行われた合宿では毎朝、元気のいい吉野部長の合図で『ハアーーー、イヤ!』の掛け声が太平洋に向かって叫ばれた。 コンクールに3年生が燃えたのは、抽選会での一言だった。抽選で引いたクジは、東京代表として全国大会常連校・玉川学園の次でコンクールの大トリ。「ウァ、共立、カワイソォー、銅賞決まりジャン。」 誰が言ったかわからないが、この言葉に部員が燃えた。定番のスタイルで、汗をぬぐいながら続ける練習。本番は夏休みも終わりに近づいた29日、浅草公会堂での演奏はまさにエネルギーの塊・ほとばしりを感じさせる音であった。客席の後方の壁に跳ね返って聞こえてくるトランペットの出だし。クラリネットの沖縄風メロディー。そして、鍛えに鍛えた『ハアーーーー、イヤ!』の掛け声。指揮をする私の背筋がゾクゾクと震えた。 表彰式。私は高吹連の役員としてステージ上にいた。 「玉川学園、ゴールド金賞!!」 このアナウンスが流れる前から会場がざわめいていた。ここまで金賞受賞校が4校。東京都大会への出場校は金賞の6校。 「共立女子高等学校、ゴールド金賞!!」 会場からは悲鳴に近い声があがり、部員たちは泣いていた。 9月、前期定期考査の前日、24日があこがれの普門館での演奏であった。5000人は入る大きな会場に私たちの音が届くのだろうか?ステージでは精一杯の演奏をした。結果は銅賞ではあったが、私たちにとっては『金と同じ賞』であった。 |
#013 1981年(S56) |
部員から音大生が… 2年生の鳥井から打楽器で音大へ進学したいとの相談を受けたのもこの年だった。榛名SMSで講師をしていた芸大の木村和彦先生にレッスンをお願いした。 1981年(S56)、3年生になってレッスンのため部活を続けるか、休部するか相談を受けた。 「将来、演奏家として活動をしていくのならば、休部してもいい。でも、学校の先生になって部を指導するような立場になったとき、今のあなたのような相談を生徒から持ちかけられたらどうする?大変なことはよくわかるけど、将来のための経験は今しかできないんだよ。」 3年になって鳥井は部長として部をまとめ、自分の練習も屋上の倉庫の中で遅くまでやっていた。 1982年2月、武蔵野音大に合格したことで吹奏楽部も新しい展開を生んでいくことになった。 その後、音大生になった鳥井さんはコーチとして、共立の指導に来てくれるようになった。しかし、1・2年次は授業のため平常活動での指導は出来ず、合宿での指導だけになってしまった。3年になった鳥井さんに大学での友人の中から各パートのコーチを探してもらった。その結果、1985年、現在のFl.平野、Tp.井山、Hr.丸山、Tb.田沢(1年後に現在の大川)らの新進気鋭のスタッフがそろった。その後、丸山コーチは読売日本交響楽団(現在は退団されフリーの演奏家)へ、井山コーチはSax.の佐々木コーチとともに埼玉の狭山ヶ丘高校へ移り活躍されている。 |
#014 1982年(S57) |
はじめての定演 生徒部への数種類の書類を添えて提出した定演開催の許可申請が認められたのが、1981年の秋であった。1年間の活動の成果と3年生を送る意味を込めて3月の春休みに設定した。演奏会の構成は、第1部は作曲者などテーマを決めて勉強を、第2部は企画ものを、第3部は楽しくポップスを演奏するパターンができあがった。 さて記念すべき第1回は1982年3月28日、1部はA.リードを取り上げ、2部は定演開催を楽しみにしていたOGに協力してもらい今までの思い出の曲を、3部はお得意のミュージカル特集を組んだ。共立講堂はほぼ一杯になった。メンバーから充実感が溢れていた。 |
#015 1982年(S57) |
佐々木・内海両コーチが参加 1982年、合宿からSax.佐々木コーチとCla.内海コーチがスタッフに加わった。佐々木コーチは武蔵野音大卒の元気一杯キャラ、内海コーチは芸大卒で部員あこがれの佼成ウィンドのプロ奏者、二人には榛名で知り合ったのだが、お手伝いを快く引き受けてくださった。 佐々木コーチはユニークかつモーレツ練習で部員を引きつけ(合宿名物館山体操は、彼が生みの親)、内海コーチは冷静沈着に指導を展開していった。数年後、佐々木コーチは埼玉・狭山ヶ丘高校へ、内海コーチは東京成徳高校へと教師に転職し、現在はコンクール・マーチング等で共に全国大会へ出場している。 |
#016 1982年(S57) |
共立講堂でコンクール 1982年、夏合宿中の15日館山寮の電話が鳴り響き、鳩山薫理事長・学園長の訃報が知らされた。9月4日、青山斎場で行われた学園葬は盛大かつ厳粛に執り行われた。 年々増加する参加校と出場者でコンクール会場はいつも人で溢れ、消防署から注意を受ける状態だった。連盟でコンクール実行委員長をしていた私に連盟から2000人収容できる共立講堂を借用したいとの依頼がきた。外部団体への貸し出しを止めていた学園はこの申し出に理解を示してくださった。ありがたいことであった。 鳩山先生の学園葬の翌5日、講堂でコンクールが行われた。部員たちは直前まで校内の別室で練習することができた。会場校のメリットではあったが、結果は銀賞であった。 |
#017 1983年(S58) |
窮すれば何とやら…部長さんは御用聞き 1983年(S58)、高吹連役員改選で副理事長に選出された。常任理事の時から都吹連の仕事も兼任していたが、さらに会議の回数が増えていった。校務では教務部進路指導係で600人の進路状況の整理・分析をしていたが、カード集計からワープロ・パソコンでの集計転換へ専用ソフトの開発が急がれていた。時間が足りなくなっていった。体が幾つも欲しかった。練習もなかなか見てあげられなくなっていった。 毎日、部長が休み時間に私のところにその日の予定を確認にくる。コン・ミスとは、前回の練習状況の報告を受け、練習内容の打ち合わせをする。こうして、共立の練習スタイルが確立していった。これは、現在も変わらず続いている。 |
#018 1983年(S58) |
来ないで台風!! 1983年8月16日、館山で私たちはTVのまえにくぎ付けになっていた。台風何号だかが、館山を直撃するとのこと。明日17日には帰る予定なのに…。万一にそなえてバス会社に電話し、キャンセルや18日の予約などの打ち合わせをした。寮では次の合宿する部が来たらどうするか、どこに寝かせるか、など…。台風は裏切らなかった。部員たちは予定外の1泊に喜んでいた。4月、1年生48名を迎え大所帯になり、また2・3年生だけでもA組50名を超えてしまっていた。考えた末にコンクールはA・B二組に出場することにした。B組の2年生は高音が出せる者、リーダーシップが取れる者から選んだ。A組もB組も共立の代表として参加するのだという意識を持ってくれて嬉しかった。残りのメンバーは1年生から選ぶ。そのメンバー発表は合宿最終日の昼食後、帰りのバスに乗る直前にした。帰りのバス内の様子は…。 ダブル出場は共に『銀賞』であった。 |
#019 1984年(S59) |
部員が100名超えた 1984年(S59)4月、新入部員を加え、とうとう総勢126名に膨らんだ。前年と同様、コンクールはABの二組参加することにし、B組の指揮を鳥井コーチにまかせた。打楽器が活躍する『ウォバッシュ地方の伝説』を自由曲に選んだ。1年生の打楽器メンバーには後に部長として活躍した指田、音大の打楽器科へ進学し現在コーチの岡谷(現、菊地)・猪俣(現、寺嶋)らがいた。 鳥井コーチの熱意が音になり、B組は見事『金賞』の快挙を成し遂げた。 1985年3月、吹奏楽部に多大な理解を示し、育んでくださった校長の織田先生が定年を迎え、ご退職された。ありがとうございました。 |
#020 1985年(S60) |
過密状態の教室に冷房が… 1985年(S60)4月、織田先生の後任に岡田精助先生が校長に就任した。新歓の後の入部説明会をとうとう講堂で実施した。練習見学者などの数から100名を超える1年生が説明会に集まった。1年生600人なのでこの人気はすごいことであった。1年生1クラスの担任になったようなものだった。結果、部員数は133名を記録した。 この部員数での夏の練習に悩んでいたが、学園創立100周年事業で全館冷房の工事が行われ、7月、噴出す冷風を感じながら夏の練習が始まった。もう、首にタオル、手にはうちわはなかった。 |
#021 1985年(S60) |
ラルフ・ローレン・ポロシャツ隊 1985年、鳥井コーチが音大の仲間から各パートごとのコーチングスタッフを集めてくれた。 平野コーチらで、既に毎年お世話になっている伊達先生はじめ、合宿に勢ぞろいしたそのメンバーは壮観ですらあった。食堂に集まるコーチは打ち合わせをしたかのように、ラルフ・ローレンのポロシャツを着ていた。かく言う私もご多分に漏れず、ついた名前はラルフ・ローレン・ポロシャツ隊。 合宿の始まった12日、午後の練習を終えてロビーに集まってきた我々を待っていたのは、日航機の御巣鷹山への墜落事故のニュースであった。坂本九さんも被害者の一人だった。 毎秋、体育祭で演奏してきたが、前年から学園八王子グランドでの開催になり、楽器輸送などの問題もあり、開会式のファンファーレの演奏のみになってしまった。この後、ファンファーレは部員の作曲した作品が用いられることになった。 |
#022 1986年(S61) |
誰が持ってきたの? この大雪!! 1986年(S61)3月23日、春分の日。本来ならば桜の便りのニュースが大雪のニュースに変わってしまった。演奏会が始まる直前まで交通情報に耳を傾け、演奏会のMCは雪情報になった。この日のために練習してきた曲を一部カットしながらも演奏会を続けた。 この日のポイントは第2部、伊達先生をゲストに迎えてのウェーバー作曲のファゴット・コンチェルト作品75ヘ長調であった。私もはじめての本格的なコンチェルトで何度か伊達先生ともあわせて練習してきた。編曲者の近衛秀健先生(現、宮内庁音楽隊隊長)も会場にいらしてくださっていた。演奏後、2階席の近衛先生からステージの伊達先生に向かって一言。 「伊達先生、上越からいらっしゃるのは先生だけで、雪は連れてこなくてもよかったのですよ。」 ![]() 3部は、聖子ちゃんや欽ちゃんファミリーわらべの歌、コーラスラインのダンスと深く印象に残るコンサートとなった。 校務(進路)の仕事に時間が多くさかれるようになってきた。夜の連盟の会議も休みがちになってしまった。今後は京華学園に勤務し、吹奏楽部を指導している鳥井(現、山上)さんが連盟役員として頑張ってくれることを期待して、この1986年3月をもって高吹連の役員を辞退する事にした。多くの高校生のためにご苦労下さっている先生方の存在を肝に銘じて活動していくことが大切だと連盟の役員に携わってみて痛感した。感謝。 |
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