吹奏楽部の歩み BACKSTAGE

♪黎明期♪(必修クラブから部活動へ)
#004
1976年(S51)
必修クラブでスタート

 1976年(S51)4月、必修クラブの登録リストに軽音楽は消え、吹奏楽クラブの名前があった。メンバーだった生徒たちを集めて、ここまでのいきさつを説明した。その結果、軽音楽のメンバーの何人かが吹奏楽クラブへ参加してくれた。
 募集の結果、打楽器の3年生が1人、2年生が14人、1年生が18人の33名で吹奏楽クラブは発足した。次はメンバーが使用する楽器を準備することであった。これには私の母校、小田高同期の仲間や後輩たちが買い換えて使用しなくなった楽器などを寄付してくれたり、安く譲ってくれたりと協力してくれた。また、学校の近所や上野あたりの質屋めぐりもして楽器を買い集めた。この年、学校が備品として購入してくれた楽器はアルト・サックス、テナーサックス、テナートロンボーンの3本のみであった。楽器の目途がなんとかたったのは7月になろうとしていた。
#005
1976年(S51)
1年生10名が榛名へ

必修クラブは木曜日6時間目の1時間のみ。音は出ない。7月、1年生の有志10名を榛名SMSへ連れて行った。9月、朝の屋上に赤とんぼのメロディーらしきものが流れ始めた。11月の部・クラブ発表会での演奏曲である。クラブは授業であり、週1回、1時間との制限があったが、授業なら予習が必要と勝手な解釈をしてメンバーたちは個人練習を開始した。

 11月、発表会では『マーチ・カール王』や大川先生のトランペットで『トランペット吹きの子守唄』『赤とんぼ』など6曲を演奏した。この演奏にも近藤・大川・津田の三先生が参加してくれた。講堂いっぱいの生徒と先生方から大きな拍手が沸き起こった。共立吹奏楽のデビューの瞬間だった。



 この年、12月も押し詰まったころ、副校長であった池亀先生が亡くなられた。発表会での勢いをかって、3月予餞会にも参加した。『聖者の行進』ではバトンクラブが競演して盛り上げてくれた。『バンドのための民話』や、家に泊まりこんで私のアレンジした楽譜の写譜をしてくれた近藤先生のおかげで間に合ったヒット曲、落合先生と部員の歌による『チンチンポンポン』、最後に会場の生徒全員で歌った『若者たち』。吹奏楽は少しずつ生徒の心をつかんでいった。
#006
1977年(S52)
吹奏楽で校歌を

 1977年(S52)4月、副校長に織田富勝先生が就任された。先生は朝早くから校内巡視をされるのが日課であった。メンバーの朝の屋上での予習?は続いていたが、先生は見ぬ振りをしてくださっていた。2年目、30名近くの新入クラブ員を迎え、活動も盛んになった。榛名へも参加し、基礎練習を繰り返した。部活動において吹奏楽の利点は、他の部より学校行事に貢献できることである。まず、体育科の先生方にそれとなく、
「体育祭の開閉会式に吹奏楽の演奏を使ってみない? 君が代や表彰のときの得賞歌も楽譜は用意してあるよ。校歌と学園歌は私が吹奏楽用にアレンジするから。生演奏での入場行進はかっこいいですよ。」
もちろん、体育の先生方はそういう経験を何度もされているので、快く賛成してくれた。あとは演奏をしっかりやるだけ…。
 9月28日、駒沢オリンピック公園総合運動競技場第二球技場で記念すべき演奏が行われた。開会式でファンファーレが鳴り響き、マーチ『キング・コットン』が流れると2000人近い生徒の入場が始まった。『校歌』の演奏に生徒の大きな歌声が競技場にこだました。生の吹奏楽で聞く『校歌』の演奏に、前で整列している先生方のほとんどが振り返ってスタンドで演奏している私たちを見ていた。
 私は目頭が熱くなっていた。吹奏楽が、共立に認められた日であった。
#007
1978年(S53)
コンクールへ、そして部へ

 1978年、前年の学校行事への貢献が認められて、必修クラブではあったが吹奏楽コンクールへの参加が認められた。すぐに東京都高等学校吹奏楽連盟(高吹連)に加盟した。その前年の77年、共立での吹奏楽クラブの発足を待っていたかのように、榛名でお世話になった伊達先生や山本孝先生(現東京音大教授)らのお誘いを受け、私は高吹連の理事として活動をしていた。共立の加盟を役員の皆さんも大変喜んでくださった。
 1年の時、榛名で泣いて頑張った3年生がコンクールのステージで演奏できる。
8月、学校での練習は活気があった。課題曲『砂丘の曙』、自由曲『吹奏楽のための小狂詩曲』の2曲に汗を流した。体操着で首にタオルを巻き、うちわを横に置き、暑い教室で練習をした。コンクールの練習はこのスタイルで!が定着した。
 B組(30人編成)に出場した。結果は『銅賞』。
高吹連の規定で参加校は金・銀・銅の3つに振り分けられるのであったが、9月、始業式で各部の試合結果の表彰が行われ、「吹奏楽クラブがコンクールにおいて銅賞を受賞しました。」のアナウンスに共立講堂いっぱいに大きな拍手と驚きの声があがってしまった。先生方からのお褒めの言葉をいただいたが、私は多くを説明せずに、「ありがとうございます。」と答えていた。

 次はいよいよ生徒会部活動への昇格が目標になった。生徒部部活動係へ申請書類を提出し、審議の結果、翌1979年(S54)からの部活動への移行が正式に決定された。長かった。
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