吹奏楽部の歩み BACKSTAGE

♪胎動期♪(吹奏楽部顧問、栗田の準備期間)
#001
1970年(S45)
ない!! 吹奏楽部がない!!

 1970年(S45)4月、縁あって、共立女子高校に採用された。共立は合唱で全国コンクール常連校だった。吹奏楽部はなく、100名近い部員数を誇る音楽部がキラキラ輝いていた。音楽部の顧問にしてもらおう。当時の顧問の先生にお願いしたが、
 「栗田さん、あなた、音楽わかるの?」
 この一言で、
 「そうか、おれは化学の教師、他の先生方には理科の教師としか認められていない。音楽ができるということを理解してもらうことから始めなくてはならない。」と。
#002
1964年(S39)
高2秋、高校の教員になって吹奏楽を指導したい。

 高校2年の1964年(S39)9月中旬のある日、武蔵野音楽大学の前田保先生が音大を受験しないかと私に声をかけてきた。当時、部長をしていた私は先生が来られないとき、先生の指示を受けて代わりに指揮をしていた。
 音大でもっと音楽を勉強したい! 自分がした経験を次の高校生に伝えたい!
家族との相談の結果、高校の教師になるのなら音楽でなくてもとの結論に至り、その当時、得意科目?だった理科を専攻することにした。
 結果、1966年(S41)4月、東京理科大理学部化学科へ進学。以後、大学在学中は、前田先生の指導を受けながら母校のコーチとして4年間を過ごした。後に共立でコーチをお願いした米山さんも当時の部員だった。

 大学4年6月頃、前田先生から榛名サマーミュジックスクールへの参加のお誘いを受けた。このスクールは、全日本学校バンド連盟が日本ではじめて開催した吹奏楽のサマーキャンプだった。高校生コースはコンクール全国大会金賞常連校などから150名、指導者コースは音楽の先生方50名ほどが集まり、実技や編曲法・指揮法のレッスンを受けた。私も先生方に混ざって指揮法(芸大の金子登先生)や編曲法(保科洋先生・小林秀雄先生)のレッスンを受け、編曲法では自分で編曲した作品をそうそうたる講師の先生方(Flu.佐伯・Cla.千葉国・Sax.須田・Fg.伊達・Tp.西村・Hr.千葉馨・Euph.山本・Tub.大石・Perc.木村)で編成したバンドで演奏していただいた。このスクールでのちにお世話になる多くの先生方と出会うことができた。
 この榛名SMS
では何年かレッスンを受け、その後、教務スタッフとしてお手伝いすることになった。
#003
1972年(S47)
いよいよ、共立で音楽を…

 1972年(S47)に指導要領改訂で必修クラブが実施されることになった。この機会に吹奏楽をと思ったが楽器がない。
ならばと、軽音楽クラブをスタートさせた。当時、ギターは不良がやるもの、ロックなんてとんでもない、という状況だった。
 クラブ員は80名を超えた。みんなで音楽を作ること、表現することを生徒たちに経験して欲しかった私に、海外研修で夏の1ヶ月アメリカに行く機会が巡ってきた。ミュージカルが好きな私は、当時のヒット、『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』をブロードウェイで見ることが出来た。もちろん楽譜や資料を買い込んできた。帰国後、このミュージカルを生徒にチャレンジさせることにした。台本を書き、アレンジに1年がかかった。メンバーからのオーディションで楽器の担当、イエスやマリア・ユダなど配役を決めた。

 1974年(S49)11月の部・クラブ発表会(校内のみ)で披露した。好評だった。メンバーたちは翌75年(S50)の文化祭でも発表したいといってきた。このころは既に、私が音楽の指導ができることを先輩の先生方も理解してくださっていた。文化祭では洋舞研究部のダンス・放送部の音効・演劇部の照明と総勢100名を超える生徒による1時間40分にもおよぶ大掛かりなステージに、近藤先生のフルート、大川先生のトランペット、津田先生のクラリネットと先生方も加わって発表は大好評であった。舞台裏では涙をあふれさせている生徒がたくさんいた。しかし、このとき既に私は次年度、吹奏楽クラブへの転換を心に決めていた。そのことを軽音楽クラブのメンバーに伝えることは大変辛く、そのまま4月を迎えることとなってしまった。